行政書士として平成5年(2023年)に開業するまで、自分のこれまで歩んできた道のり(ストーリー)をまとめてみました。
もし、皆さまとどこか共鳴するようなことがあれば、一緒に飲みながら情報共有をさせていただければと思います。
・昭和45年(1970年)、小学校2年生のとき、父親(31歳)が胃がんのため死去。
・母の実家である北上市二子町(現住所)の、田んぼの中の一軒家(かなりボロ)に引っ越し、近所の友達と毎日田んぼの中で走り回って遊ぶ。
・中学校入学式の時に聞いた吹奏楽に感動し、吹奏楽部に入部(担当:Tuba)し、朝・昼・晩と、練習に明け暮れる。
・高校時代は、合格発表の翌日から吹奏楽部に「無理やり」入部し、Tubaを担当。
・3年間、朝・昼・晩と練習ばかりして、勉強や大学入試は全くやらなかった。(成績は下から3番目くらい)
・高校卒業後、仙台市にある予備校に入り、翌年なんとか国立の弘前大学(人文学部経済学科)に合格。
・サークルはオーケストラに入り、弦楽器であるコントラバスを担当するも、1年で退部。
・しかし、やりたいことがなく、たたボーとして4年間を弘前市で過ごし、バイトもせず暇な毎日を過ごす。
・4年の時は、就職活動もろくにせず、たまたま合格した岩手県庁に入る。
・県庁の最初は、本庁の都市計画課に配属され、当時珍しかった大型ワープロ機器で文書入力を担当。
・2年後、県北の出先機関に異動になり、生活保護を担当。
・世の中はバブル絶頂期だったのに、何もない県北の田舎で平凡な公務員生活を送る。
・その後県庁に異動になり、福祉の新規事業を複数担当し、財政当局と毎日ケンカ状態で予算獲得に走り回る。(土日、夜も昼もない状態)
・それを認められたのか、岩手県に大学を新設するという構想が出て、そのメンバーに選ばれる。
・基本設置案を持って自治省(現総務省)に向かう途中、東京の地下鉄内で「地下鉄サリン事件」そのものに遭遇。また、家庭も子育ても顧みず、ほとんど毎日(夜、昼関係なし。正月もなし)大学づくりに走り回る。
・学長予定者として、当時の東北大学総長「西澤潤一(ミスター半導体」)先生に出会い、これからの岩手県における高等教育や研究のあり方に感銘し、今までの公務員生活が一変し、岩手県の人材育成について真剣に考えるようになる。
・大学づくりは順調にはいかず、最後は文部省(現文部科学省)の審査がかなり厳しく、新たに採用する教員の教育・研究実績の資料を整えることができず、何度も文部省に行ってその対応に追われる。
・誰もやったことがない大学入試の企画運営を任せられ、前例が全くなく、悩んだ末、飛び込みで東京都立大学の入試担当に相談し、その実務・ノウハウを獲得することに成功。
・大学教員とのやり取りや国の役所(自治省、文部省)との調整などで、人と接触して全体をまとめていく、という公務員の仕事とは言えない、営業あるいは前例のない企画立案が得意分野となるなど、自分が変化していく。
・このことから、全然分からないことがあっても、とにかくあっちこっちに聞いて回るとか飛び込みをして、情報を勝ち取ることに「快感」を覚えるようになる。
・大学が平成10年(1998年)4月に無事開学し、そのまま滝沢の大学事務局に異動になり、楽できるかと思いきや、まだ1年生しかいないのに「就職」担当となり、県内はもとより東北6県、首都圏の企業に対して営業に走り回る。
・その活動が認められたのか、2番目のこどもがおなかの中にいるにもかかわらず、単身赴任で東京事務所(企業立地)に異動を命ぜられる。
・東京事務所では、首都圏はもとより、名古屋・大阪方面の企業も回り、工業団地の売込み営業(アポなし飛び込み)を行う。
・平成14年(2002年)4月に、県庁に戻るも、当時大騒ぎとなっていた狂牛病(BSE)の担当窓口となり、苦情電話の担当となる。
・その後は、まったく業務上「関連のない部署」を転々と異動し、最後は消費者トラブル担当の県民生活センターに異動となり、消費者トラブルや旧統一教会問題の担当となる。
・令和5年(2023年)3月、県民一人ひとりの悩みごとに向き合うことの大切さに改めて気づき、再雇用(65歳まで)を断り、行政書士として独立開業を決断。<60歳で定年退職>
・2024年4月の誕生日で62歳。現在、岩手県北上市で行政書士として仕事をしているが、10年度(72歳)は、新たな挑戦として、日本からとんでもなく遠く、治安が超悪い「南アフリカ共和国」で行政書士をする。(予定)